一昔前は、歴史研究家は皆、古文書絶対主義だった。つまり、古文書に書いてることは全て正しく、歴史は書かれてきた通りで誤りはないという主義だった。ほとんど思想というか宗教と同じで、古文書絶対主義とも言うべきものだろう。いまなら行政文書に書かれていることは全て正しいと思い込んでいるどこかの野党議員と同じだ。実際は裏付けのない内容だとか、物的証拠を突きつけられると、どうも古文書は嘘という事の方が真実なのだ。結局、権力を奪った側が後世になって書き残す以上、自らの悪事はひた隠し、敵側を激しく罵り、悪行を押しつけるということが歴史書の繰り返しだったということがわかる。今は古文書などを証拠とともに詳しく分析し、本当の歴史を導き出す努力が、歴史家の中でされている。いずれはどこかの国の憲法も歴史上の資料、というより古文書として歴史に残るのだろう。さて、その憲法は本当の事が書かれているかどうかも慎重に分析が必要だろう。憲法を作ってきた人は今でも影響力が強く、現在でもどこまで本当の事かはわからない、わからないと言うよりハッキリ事実を言うことはできないのだ。一部の人々は「憲法は憲法だ。憲法をなんと考えているのか」と息巻いて憲法改正などもってのほかとのたまわっているが、大江健三郎氏も亡くなったいま、その真実を解き明かす時期に来ているのかもしれない。本当にこの憲法はこのまま文言通り読み解くべきなのか、実は隠された事実があって、本来の真意が隠されて、ねじ曲げられていないか、本当の憲法学者なら研究し、解釈すべきだ。しかし、現在の憲法学者は書かれていることがあたかも真実のように解釈している、これで百年後先、千年後先には墓穴を掘ることになることを気がつくべきだ。そして、その憲法はどういう真実を隠すためにこの詞書きになったか知るときは今来ているのかもしれない。