災難続きのイギリスのロンドン、今度はゴッホのひまわりにトマトスープが掛けられたというニュースがあった。石油により地球環境を破壊することで人間の生命を危うくするのか、石油をつかった油絵のほうが地球環境より重要かとスープをかけたひまわりの前で叫んでいた。はっきり言って、トマトスープのほうが大切だろう、食べ物を粗末にするようなやつに環境問題を論ずる資格はない。しかし、日本のマスコミ特に反日団体は大喜びだろう、彼らの反日論理とそっくりだから、そのまま、日本と世界はどちらが悪いかのような論理で、日本を悪者にする例の方式だ。「人間」は「物差し」に値するので、本来は「芸術」や「環境」という対象物と比較することはできないが、一般市民はそれだけ聞いて、やれ大変な問題だ、「人間」が当然重要だという短絡的な結論を得て、まるで反日団体の思うがままのように、術中に絡めてられるという寸法の論理だ。「物差し」そのものと他の事項を比較してはならないのだ、ここらが日本の評論家やオピニオンリーダーのフリをしている連中の詐欺的手口だが、多くの人々は騙されてしまうのだ。たとえば「石油」と「石炭」を比べてどちらが重要かを論ずるのはいいのだが、「人間」と「石油」を比べる意味があるのか、「芸術」と「環境」を比べる必要があるかだ。結論は問題点の偽装すり替えで、はじめからの都合のいい話への方向転換を図る食わせ物であるのだが、このことがわかる人はいるだろうか。とんだ迷惑はゴッホさんであり、トマトスープであり、ナショナルギャラリーだ。さて、しかし、問題は何を比較する事ではなく、石油の消費、つまりは二酸化炭素CO2の増加で地球環境の危機をどうするかだ。これは、グレダという少女が世界的に有名になった事案でもある。しかし、石油を消費尽くせば多くの人類や生き物が死ぬだろうが、しかし反対に石油を消費しなければ人類は原始時代となってほとんどの人は死ぬだろう。石油が無ければ、ゴッホの前で騒ぎ立てた二人の犯人の服も靴もスマホもなく、そこまで行く交通手段もコンビニのパンもなかったろう、それが現実なのだ。持論で言うなら原子力発電を使う以外にはない、確かに津波や大地震の対策はできていなければならないが、対策がきちんとあればこれほど安全な発電はないということを理解すべきなのだ。決して反日団体の反原発、反国葬に踊らされてはならないといことだ、そもそも、日本人がなんでもかんでも日本国に反対すること自体がおかしいと思わないのかい、え、反日爺さんども。