トップイメージ

信教の自由の誤解

世の中の評論家や専門家は自らが教祖になったかのごとく「信教の自由」を唱えるが、信じることは確かに自由であるが、信じ込ませることは原則があると言うことを理解していない。理解していないとまるで子供のように好き勝手が許されると思うだろう。例えばマスコミだと称しても、嘘偽りのフェイクニュースを垂れ流すテレビや新聞社があれば社会的におかしいだろう。それを信じる大衆を処罰はできないし、何を信じるかを強制もできないし、まさに個人の自由だ。しかし、嘘をながした当のマスコミは処罰が必要だ。宗教も同じ、自爆テロを神のためといわれようが、サリンをまくのも教祖のためだと信じても、全財産を寄付すれば地獄に行かないで済むと言われて資産を失っても、それは個人の責任は問えない、逆に同情するか気の毒に思うだけだが、それをさせたニセの宗教法人、詐欺の教祖を信教の自由で守ることはできない。宗教は長年学んでいるが、宗教の概念に金を巻き上げる教えや、殺人を行う教義はありえないのだ。すなわち、人間同士の問題ではなく、神または仏とつながる人間が基本構造になる以上、そういうニセの思考はあってはならないのだ。もしそういう理論を是認する宗教では、究極、神(仏)を殺せますか、金を神(仏)からもらえますか、できないでしょ。まあ、そういうニセでも信じることは仕方ないです、それは個人の脳みその中のことなのですから。しかし、教祖たちが口を通じて殺人や金を出せと言えば、その段階で強要、教唆、誘導、詐欺等々になるということです。ちかごろ、統一教会側を宗教の自由で弁護する輩が目立ちます、これをニセ専門家と言いますが、決して信じないでくだいさい。それ自体が間違った教え、邪教ですから。端的に言えば「信仰における内心の自由」は侵害できません、だってだれも人の思考の中身を知ることができないからです、しかし、表現すれば表現の自由だからと言って許容されません、つまりは表現には制限があるからです、お忘れ無く。

内山家政婦看護師紹介所

トップへ戻る