事件から14年目にようやく死刑が執行されるとか、いかに日本の裁判は時間的感覚が無いか、結局時間をかける分だけ裁判長の給与は保証されるのだ。いっそAIを使い瞬時に判決を出せば良い。ましてハンコ一つですむ事務を法務大臣はほとんど押したためしがない、まるで法務大臣が死刑をするつもりでお偉いのだろうが、単なる儀式にすぎないことをなぜやらないか不思議だ、これもまた死刑反対論者の批判を恐れるだけで、職務執行の怠慢にすぎない。もちろん、昨日も言ったように三権分立にも違反する、裁判所が決定したことを行政側がサボタージュするなどありえない。さて、凶悪犯罪には死刑が有効であろうが、死刑になりたいので犯行に及んだという犯行の動機を聞いたとき、死刑反対論者は答えられるのかい、いい加減な理屈をこねて金でも稼ごうという魂胆で死刑を問題化すべきではない。ハッキリ聞くが、キリストの刑死はえん罪か、それは死刑反対の論拠かお聞きしたい。キリストの死刑に反対してあれはえん罪でピラトに判決を覆すようにして、キリストは許されて使徒たちと和気あいあいゴルゴダの丘から帰るというのもいいかもしれない、ハッピーエンドだ。まあ私が言うまでも無いが、死刑は存在するし存在続けるだろう、中国共産党は年間一万人以上を死刑にしている、昨日はミャンマーで民主化の代表者が数名死刑になっている、こういう問題には人権派や反日組織は何も言わない、当然だろう中国の指示しかやらないのだから。まあ、話をもどして、キリストは死刑が存在するし、マリアは大天使ガブリエルの話を承諾しキリストを生んだ。仮にマリアが大天使の話を拒否すればキリスト教は生まれなかっただろう。また、キリストも十字架にかけられず畳の上で老衰で死んだらだれも教会で祈ることはなかったろう。聖書は決して現代社会と無縁ではないのだ。