今日も日本中猛暑です、台風も連続で到来するようです。このような地球的な環境問題をなぜ科学者たちは沈黙しているのか不思議です。大学教授、研究者、知識人、マスコミだれもなにも言いませんね。反日少女像になると断固として表現の自由を盾に声高に叫ぶのですが。日本国民への名誉棄損など眼中にはないのです、ちょっと過激なことを言うと脅迫とか言われて逮捕されるほうが異常です。ハッキリ言って少女像の方が日本人への脅迫です。くだらない反日で科学者ぶるなら、まず地球温暖化問題を知識人として声高に議論された方がいいのではないですか。
さて佐倉の国立歴史民俗博物館と関係はないのですが、この間の番組で鎌倉幕府の成立がいつかという討論を歴史学者たちが延々結論も出せずに、近視眼的な論議を見ました。もちろん議論は必要ですが、重箱をつつくだけの議論のための議論に終始したので、一言申しましょう。
まず、鎌倉幕府は天皇及び貴族の社会に対し「武士」という階級が日本社会に確立したエポックなのです。すなわち、平将門や清盛、奥州藤原などという貴族の流れではなく、まったく異なる武士のシステムなのです。それが重要で、もう一つはそれがどう承認されたかです。番組でも言われたとおり後世の室町幕府や徳川幕府とちがい、頼朝は部下もいなければ土地もなく、そもそも幕府という言葉もありませんでした。ゆえに後世からみて「幕府」なるものの定義すらなかったのです。しかし、ラーメン店を今作るときと同様、店の建物をつくり営業するという時とは別に看板を作らないといけません。それには役所への届け出とか営業許可をもらいます、すなわち店を作る前に役所のお墨付きが必要です。それと同じです、当時の武士はまさに弱肉強食の世界で、頼朝が武士団の頭目になれたのはひとえに「源氏」という朝廷の流れがあった以上、勝手に幕府とは名乗れませんでした。結論をいうと、頼朝が朝廷から初めて承認された1183年(寿永二年)が鎌倉幕府の成立です。そのあとも征東大将軍または征夷大将軍という称号を得ていますが、それは看板のグレードアップにすぎないので、すでに鎌倉幕府なるものができたあとなのです。現在からみれば家康のように最初から征夷大将軍がわかりやすいのですが、当時は天皇から承認されることが出発点であり、また当時は征夷なる文言も幕府とは直接かかわりのない用語だったのです。これは井沢元彦氏の説と結論は同じだと思います、解説も同じとは思いますが、いまそれを見て書いてはいないので、私の勝手な意見かもしれませんので、すいません井沢氏の逆説の日本史でご確認ください。