高齢化少子化社会の中で子供の存在は重要だ。昔の小学校は子供も多かったし、先生にもお構いなく暴れる子供やいじめっ子もたくさんいて元気で社会も大目に見ていたが、この頃のいじめはどうなのだろうか。いじめと共に不登校児童の増えてくるとどこに居場所を求めるのか。当然教師が一人一人の児童を全部見守ることなど不可能だ。また学校付近や社会で子供を見守るというのも限界がある。話はずれるかもしれないが、西洋社会では、教会での宗教活動、社会活動、地域での社会教育活動などさまざまな取り組みで教育活動が複合するが、日本は学校か親かの二者択一だ。特に精神的な発達が乏しい社会ではいい意味での宗教的な道徳論が子供に浸透できないような気がするの意だ。結局ジャニーズのようなこと、ビックモーターのようなこと、知事でありながら国全体よりも偏向する自身の考えで国を売るようなヤカラも、結局全て特定の一部の人々が組織団体を恐怖で縛り上げる構造を今、日本中で行われているということでもある。いま、ジャニーズの被害者は闘いを挑んでいるが、結局生きている時は逃げていたから被害者が増えたともいえる。引きこもり、不登校、それもやもえない選択肢ではあるが、いじめられるだけでなく戦う方法も教えるべきだろう。いろいろなスポーツやイベントは皆勝利に向かって頑張っているし、当然負ける子供いるわけで、それで落ち込む子や泣く子もいても逆に立ち直る子や負けない子にする鍛錬の機会である。いじめられる子はいじめられるといことに負けるのではなく、自己を見つめる学習として成長することを期待する。では、いじめられた子を慰めるのかと言うかもしれないが、慰めではない、要はいじめられる云々というより、自分自身に負けるなと言うことだ。