カルト教団を規制することが必要、規制どころか廃絶をしなければならないと考えている人は多いと思う、多いと期待しているとでも言おうか。しかし、どこかの弁護士は宗教は自由でありカルトでも認められなくてはいけない、そもそもカルトとはなにかと息巻いているそうだ、元政治家が言うので唖然とした次第である。たしかに弁護士としてカルト側にたって弁護をすればそうなるだろう、しかし、一般国民に向かって評論を言う者がカルト教団を容認する発言は断固許されるべきではない。これは維新の会の国家議員も同じなのかと疑ってしまう。とにかくスパイだろうがテロ破壊工作だろうが、詐欺や脅迫などを繰り返すカルト的集団になんども日本は危機を迎えたことを何も学習していない男が橋の下にいるということだ。全学連、革マル、解放戦線、日本赤軍、右翼、オウム真理教、統一教会あげたらきりが無いだろう、それも信教の自由という仮面をかぶって多くの人々から金品を搾取し、あげくに家庭崩壊や犯罪を起こさせていて、いまだこれを野放しにしようという輩たちだ。もちろん橋下自身が統一教会と何らかの関係があるからこういう弁護的な動きをするのだろう。弁護士ならこちらにはっきり説明しろ。
しかしながら、こういう輩がいるのは憲法上あまりに自由すぎるからだ。軍隊もなし、権利だけが一人歩きし、精々公共の福祉の制限があるだけでだれもが好き勝手にとがめられることもない。あくまでも他者の善意と好意で、当然無償で最高のサイービスを求める国民ばかりになればどうなるのだろうか。福島瑞穂のように武器を持つだけで憲法違反と訴えられては誰が侵略から日本を守るというのだ。福島瑞穂は先日の沖縄近海への中国軍ミサイル攻撃を諸手を挙げて歓迎したという、これが国会議員だろうか。それが間違っているというなら、国会議員として何で中国共産党を非難しないのかを聞きたい。
ちなみに昔は連帯責任のような社会だった、いい例が五人組とかいう制度で、5家族が団体で責任をもって問題解決すためものらしい。簡単にいえば、昔はだれでも結婚できたし誰でも仕事を持てた、仕事が無ければ誰かが探してくれるし、結婚できなくてもだれかが嫁さんや婿さんをあてがってくれた。しかし、今は自由だ、つまりは結婚相手を自分で選択し、自分で会社を見つけるのだ。親が決めた結婚相手や親の会社にだれが同意するのだ、だれも俺が決めると言って無視するのが現代だ。これだけ自由が優先し、社会的な忍耐や許容が置き去りにされている。結局、強制なり妥協なり、社会的共通性が壊滅しているから、どんどん社会が疲弊し日本が沈没するということになる。見てみなさい、このコラム以外にも無数のブログが存在するが、そのほとんどは趣味の話、どこに行った、何を見た、何を食べて、誰がいたくらいの内容しかない。深い人間関係は連帯感が必要だし、決まり事や義務感、責任感も無ければならない、少なくても社会にとってやってはいけないことは決まりが無くてもしないというのが常識だった。今は違う、常識外れをしてもだれもとがめたり注意もしない、これではカルトが巧みに近づくのを用心することもできないだろう。そういう危険性を国家で法律を作るのさえ、無駄な議論とニセの自由主義者、そして隠れて参加しているカルト教団の支援者が妨害するわけである。先ほど言った公共の福祉に変わる、国民共通の知恵が新しい憲法にとりえらるべきなのだが、憲法学者は何も勉強していないから、何も発言はしないだろう。そうだろ、ニセ憲法学者ども、違うか。