キリスト教の国でも聖書を知らないように、日本人も日本の根本思想を理解していない。日本は「怨霊」の国であり、また「言霊」の国である。これは梅原猛氏がはじめて説いた学説でもあるが、実は日本人は思想というよりも常識としてしか認識しておらず、いうなれば空気のようなものだ。空気を読めよと言うくらい、怨霊は日常に存在している。それは科学の社会になった今でも変わらない。今回、安倍元総理も国葬で悼むことも至極当然だろう。不慮の死を遂げた高位高官は時として怨霊になるからだ。安倍氏のような温厚な人柄でも、統一教の猛威に勝てなかったように、怨霊となって人々に災いをもたらすことも考えられ無くはない。梅原氏の説を信じるようになったのは精々十数年であるが、それまではなんで戦死者を奉る靖国神社にA級戦犯を奉るのかいぶかしげで不快感を感じたが、これもかれら刑死したA級戦犯が怨霊にならないように、神に奉って魂を安んじたからだ。今の日本人もれっきとした怨霊信者である。そんな怨霊など信じないというかもしれないが、実はしっかり怨霊を信じている。地震や火山、伝染病や、異常天候や大事件や大事故、多くの人命が失われたときに大々的に慰霊祭を行うのは単に葬儀の意味でも記念の意味でも無い、これらは何らかの人間社会に災いをもたらすものへの畏敬を示し穏やかになってもらいたいとの願いなのだ。死んで人々を呪うのではなく、天国で安らかにお過ごしくださいの思いでもあるのだ。外人には奇異に映っても日本人は当然のことだし、おそらく何もせずにいるほうが気持ちが悪いはずだ。今のもっとも大きな怨霊の痕跡は憲法第9条そのものだ。この第9条で平和主義や武装放棄をうたって一見世界平和の宣言であるかのように見せているが、裏は正に鎮魂であり、怨霊封じそのものだ。この件は梅原氏がどのように言っているか、逆説の日本史で有名な井沢元彦氏がなんと言っているかわからないが、おそらく同一の意見だと想像している。無念非業になくなった英霊たちがその苦しみを癒やし、二度と戦火に遭わないように鎮魂の言葉が第9条である。故にわれわれ日本人はその鎮魂の詔にさわることは極めて感情的な反発を覚えるのは、それこそが怨霊思想だからだ。いかに世界情勢をみても、国家の安全を考えた上でもこの条文がネックになって満足な防衛もできない状態になっても、変更や修正を一語たりとも認めないという人々はまさに怨霊思想なのだ。9条にさわればまた災いとなるとの恐れの感情では、国家の安全は保てないし、逆に他国に侵略されれば何で日本のために戦死したのか本当にわからなくなる以上改憲は必要だ。もちろん、怨霊にたたられたくはないので、3項を追加して自衛隊をつける程度の改正だが。いずれにしても改憲に反対する人々は知ってか知らずか怨霊思想による思考を持っているということを知るべきだろう。