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他力本願でもかまわない

基本的に自力本願であり、自分の力で生きていくと言うことを推奨し、実践したきたつもりでも、現実は多くの人々の助力があって生きてきたことに間違いはない。まあ、実際は気持ちの問題で、社会の中で自分の役割をしていくことで世界が回るなら問題はないし、満足であると思う。今の世の中は自分の力がほとんどなく、社会や他人や親に頼っている生きていく人が多いのに、周りの人たちの善意を平気で破壊する人間がいると人類という深い闇をみてしまう。多額の金を確認もせずに振り込んでしまうことが根本的な異常であるが、それを承知で賭博に全て使い切ってしまって、口先だけの謝罪では許されないということだ。こういう身勝手な輩がこれからの社会をどう構築するのだろうか、構築と言うより破壊を目論んでいるということだ。まるでプーチンもどきのような話だ。自己中心的な考えにとらわれて、自己の欲望のままに行動する、そしていつかは報いが跳ね返ってくるのだ。さて、あまりに自己中心的であれば、個人主義とか自己表現とかの本人の権利意識、個人の尊重以上に、他人の存在の尊重も大切な要素として心の中に重きを置く必要があろう。自分ばかりではなく、他者も守るべき存在という観念がないと他人を無視して自己の欲望だけの人間になるということからみればだ。他力本願は自力本願からみればなんともナンセンスであり、肝心要の仏陀であるお釈迦様は自力本願で修行したからだ。そういう方が修行を放棄して他力でいいと思うはずはないだろう、また全て他力本願ということも許されないと考えてしまう。確かに全部の全部を自力はよほどパワーがあるか精神力が強く、仏陀のような現実王様の身分であれば可能であろうが、普通は少しの自力であり、後は他力の人頼みでかまわないだろう。それを全部他力で行きなさいというのもわがままというか、自己の成長をおろそかにすると危惧するので、全部他力はおかしいと日頃おもっているのだが、言い方をかえれば自力が本来であるが、無理せず、他力も頼んでみればいいという感じだ。全部他力にしなさいと言うのは、なんでかんでも他人に依存しろと思えてしまう。話が広がりすぎたが、迷うこと苦しいことはまず一人で解決しないで、相談すべきだろう。多くの人が一人で悩み苦しむのであれば、孤独や孤立で最後まで自力にこだわるのではなく、社会に他人にまず相談し、そこから一歩を踏み出すのだ。全て人任せで生きるというのではない、まず協力してもらって解決に前進することを考えるべきだ。他力本願も自力本願も突き詰めて考えれば論理矛盾に陥ってしまうが、結局は自分が存在するという究極的な真理があって、自分の世界が存在するということだ。

内山家政婦看護師紹介所

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